「生きる」を考える

斎場にて人生の終焉を見送る 元介護職 兼 介護支援専門員の日常

今週のお題「ペット大好き!」

子供達が通っていた小学校のPTA総会で校長先生が言った。
「学校のうさぎ小屋で子供がたくさん生まれたので、飼って下さる方、ぜひ。」
 真に受けたのはうちだけだったらしいのだが、早速家族でそのうさぎ小屋を見せてもらい、その足でペットショップで必要な一式揃え、学校へ舞い戻って子供達の選んだ一羽を貰い受け、その日から我が家は家族4人、ハムスター1匹、うさぎ1羽となった。
 うさぎは1羽、2羽と数える。
 江戸時代、ペットを禁止された折、うさぎは鶏同様家畜として飼うことで処分を逃れさせようと、鶏同様、1羽、2羽と数えたことに由来する。
 もらって学校からの帰り道、雌雄の区別もつかないあかちゃんうさぎに、子供達は、それぞれの名前の頭文字「み」と「と」を使い、「ミント」と名づけた。
 帰省は遠路のため、数日留守にするので、置いては行けない。ハムスターとうさぎのケージでツーリングワゴンの荷乗せは満席。4人の荷物の減量に励んだ。実家で歓迎はされなかったが、野菜の端切れなどおこぼれを頂戴した。
 我が家のペットは肥大化する。最初はお祭りでもらっためだかに始まり、ネオンテトラを飼った時にはエアーや温度設定、フィルターも備えた。固体が小さいほど寿命は短くて、でもこのサイズの魚は生ごみだった。

 ハムスターは5匹生まれた家から1匹貰い受けて1年半生きた。貰った人に死んだことを伝えると、
「え? 今まで生きてたの?」
5匹の中で一番長寿だったらしい。さすがに生ごみにはならず、庭に小さな墓を掘り、家族で葬った。

 うさぎは5年2ヶ月生きた。
 トイレを覚えてからはケージを開け放してラグを開放した。フローリングには爪が立たないため、ケージ入り口にラグを付けると、ケージとラグの上だけを自由に行き来して、ケージでトイレを済ませてまた出てくる。えさは専用のえさを買って与えた以外に、キャベツの芯、りんごの皮など、何故か栄養価の高いところがうさぎに行く。一番好物は人参の皮。塊で与えても残すくせに、皮を好んで食べた。市販のフードはえさの入れ物に入れてケージの中に置くのだが、野菜はケージの上から垂らすと、立ち上がって口で取るようになった。動かすと不安定ながら後ろ足で歩いてえさをゲット。それならば
「めざせ、二足歩行!!」
 日々の慣れと訓練が小さい脳みそを刺激する。台所に立つ者と目が合うと後ろ足で立ちあがるようになった。つまり、
「頂戴!!」
かわいそうなぞう」を連想するのだが、うちのは「かわいいうさぎ」
 もれなく貰える。
 5年目が終わるころ、足取りが怪しくなってきた。店には、「6年目からの柔らかいえさ」なるものが売ってある。もうおじいちゃんなのだ。その頃には無表情のはずのミントの表情が分かるようになっていた。
 片足にできものが出来て、しだいに大きくなっていった。立つことが難しくなり、失禁が多くなり、毎日半身浴させるようになったが、食べ物も飲み物も受け付けなくなり、ついに最後の時が来た。
 「その時」というのは分かるもので、娘と私が交互に抱っこした。突然、ミントはうつろだった目を見開き、何度か叫び声をあげた。私から娘に渡す時、ミントの両足がダランと下がった。見開いていた目を閉じてやり、向かい合って座ったまま、私たちは泣いた。
 家族で庭にお墓を作るまでの1時間で、死後硬直してしまっていた。伸びていた足をたたんでおかなかったことを後悔した。穴を大きく掘らざるをえなかったからだ。
 ミントのお墓には記念植樹をした。木にしたかったのだが、季節柄無くて、ベリー2種になった。残ったえさはうさぎを貰った小学校に寄付した。
 あれから2年、我が家のキッチンカウンターには水槽。めだかが30匹泳いでいる。