「生きる」を考える

斎場にて人生の終焉を見送る 元介護職 兼 介護支援専門員の日常

成人式=二十歳

来週誕生日を迎える息子は成人式当日に二十歳になる。

 20年前、分娩台を13時間も占領し、5分間隔の陣痛から通算27時間の難産の末、生まれた瞬間は息が無く、蘇生された。

 「・・・ほぇ・・・」という弱弱しい第一声を今でも覚えている。

 分娩室で私は産み落とした瞬間から放ったらかされ、新生児の事で周囲は慌ただしかった。

 スポッと生まれて「はい、元気な男の子ですよー」なんて言われるドラマの感動シーンを思い浮かべていた私には程遠い出産となった。

 暫くして保育器に入れられて分娩室の隅に置かれた息子は、こちらを向き、時々手足を僅かに動かしていた。

 生きてる。ただ私の傍で生きて欲しいと願った。

 出産の記録には「新生児仮死」と記載された。

 

 予想通り、体は小さく、同じ月齢の同級生には何をするにも遅れをとった。

 幼稚園の3年保育に入園させて貰えてありがたかった。

 いつも列の一番前で先生のすぐ後ろをついて歩き、皆勤で卒園した。

 

 校区の普通の小学校に入れて貰えてまたありがたかった。

 しかし学校は幼稚園のようにはいかない。

 学ぶ事は難しかった。

 それでも女性の担任教師は愛情をもって接して下さり、出来る事を誉め、出来ない事を教えて下さった。そして小学校も皆勤し卒業した。

 

 私も息子に多くの事を求めなかった。

 他人と比べて遅くても、この子自身が出来なかった事が出来るようになる事が素直に嬉しいと思えた。生活の為に働かざるを得ない状況にあったせいもあり、共に過ごせる時間が貴重だった。そして出来るようになったその瞬間を見逃すまいと、出来る限り息子と一緒に居るようにしていた。

 

 小学6年間空手を習い、黒帯になった。淡々と稽古に通った結果だった。

 

 中学では何かの部活動に所属しなくてはならない。

 体の小さい息子は団体競技を避け、空手をしていた先輩に誘われて陸上競技部に入部した。長距離を走る同じ学年の6人は仲良く、駅伝をするにあたり親同士もグループラインを作り、1区、2区・・・とたすきを繋ぐ度、連絡を取り合い、皆が全体の順位や動きを把握していた。3年生の夏休みは毎日のように誰かの家に6人集まり、受験勉強とは名ばかりで、1時間親が見張って勉強し、3時間遊ぶ有様だった。

 

 なんとなく周囲の皆に追い付いてきたなと思えたのはその頃だった。

 

 高専に進学したものの、何をしたいのか、親も子も今一つつかめずにいた。

 夏休みも、長い春休みも、自宅でゲーム等して過ごしていた。

 変わってきたのは5年生の夏休み。

 卒業研究とデザコンに追われて週末も祝日も休まず登校するようになった。

 夏休みが明けて後期が始まる時に、これまで休みだったのかと不思議な感じがした。

 デザコンの予選を勝ち抜き、全国への切符を手にしたはいいが、リーダーとしての重責は12月の本番まで続いた。卒業研究の中間発表もあり、学校の後期中間試験も同時期だった。時間に追われながらも、どれも投げ出す事なくやり遂げた強い意志と行動力に関心した。

 全国大会を見に行った。それまで毎日遅くまで作業していた事も知っていた。班員を気遣い、先に帰したと話した時もあった。全体を見通し合理的に考える力と冷静な判断力を備え、責任ある立場を全うした。その姿は、息子を取り囲む班員や学校関係者の様子からも見て取れた。師事する先生と背中を見て来た先輩方の後を追った成果なのだろう。

 最後のインタビューが聞き取れなかったのが残念だった。マイクを向けられる事や人前で話す事に慣れていない。思考の言語化やプレゼン力が課題のようだ。

 

 成人式には息子が中学の駅伝以来ラインで繋がっている母友達も行く予定で申し合わせている。

 意義ある人生を歩んで欲しいと思う。

 迷った時には「後悔しない方」を選んでほしい。

 心身共に健康でね。

 

 成人式を迎える子を持つお母さん達は皆同じような感慨にふけるものなのだろうか。

 母親の役割とは、これからどうすべきものなのだろうか。