「生きる」を考える

斎場にて人生の終焉を見送る 元介護職 兼 介護支援専門員の日常

送迎で

自分が上着を着て来ていないかといつもいつも尋ねる利用者がいる。今日は来た時からその服装だったと言ったら納得して席に戻るのだが、5分も経たずにまた席を立ち、自分の上着を探して歩き始める。通りすがりに声をかけた職員や、受付に同じ質問をし、同じ返答をもらって、自分の席に戻る、その繰り返し。でもシャメを撮ることはせず、あえて一回一回対応する。
 朝迎えに行くと、ご主人と一緒に外に出て送迎車を待っててくれている。夕方送る時も、ご主人が玄関を開けて待っている。

 
 彼女が降りたあと、同じ送迎車で送る他の利用者が言った。
「あそこはいつもご主人が迎えに出てくれてる。うちはそんなことは一度もない」と。
 彼女は娘さんと住んでいる。その日娘さんはベランダからこちらの送迎車に気づいたはずだが、出ては来なかった。玄関へ戻った利用者が
「泊まれんかったから帰って来た」
と娘さんに言った。おしゃべり好きで何でもポンポン言い合える母娘のように見受けられるのだが、実は家では暴力暴言が飛び交うらしい。娘さんも働いていて、その娘も離婚して子供と近くに住んでいるので、親の世話と孫の世話と自分の仕事があるのだ。

 
 目が見えづらくなり、足取りもおぼつかないが、頭ははっきりしている利用者がいる。車椅子で迎えに行くと玄関で
「もう死にゃあええ」
と言う。口癖らしい。そばで息子さんが何とも言えない表情をしている。言う本人も辛いだろうが、聞かされる息子さんも辛いに違いない。デイサービスでは静かにされるがままに一日を送っている。声をかけるたび、何かをされるたび「ありがとう」と言う。夕方送ったら留守らしかったので、荷物につけられていた鍵で玄関を開け、居間まで手を引いて行って座らせた。
「死にたいのに、なかなかお迎えが来ん」
とまた言う。こんなとき、気の利いた言葉が見つからない。扉を閉めるとき、向こうを向いたまま、倒れるように横になるのが見えた。

 
 デイサービスの役割は大きい。利用者だけでなく、家族の思いを汲むことも、大切な役割なのだ。当然守秘義務は生じる。
 独居の利用者も多い。朝起こすことから始めなければならない利用者もいる。
 いろんな人生があり、いろんな老いがある。
 早世でなければ誰もが避けては通れない、死に至る道。
 そのとき、自分は、家族は、どうなっているか、どうすべきか、どうなりたいか、忙しい日々の中でも、この仕事についたからこそ、見て、考えることが出来る。